登入「……すまなかった」 ヴィルレオは、またそう言っていた。 自分でも、ほとんど意味を持たないとわかっている言葉を。 リュゼリアはその言葉に、困ったように、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。「そういうところが、旦那様らしいわね」 優しいのか、厳しいのかもわからない響きだった。「謝って済まないとわかっているのに、謝らずにはいられないのね」「……ああ」 否定できない。「そうだ」「ええ。わかっている」 それ以上、リュゼリアは何も言わなかった。 暖炉の火が静かに燃えている。窓の外では、夜の風が湖のほうから細く吹き込み、枝をわずかに揺らす。その静けさの中で、謝罪にならない謝罪だけが、二人のあいだへ取り残された。 やがてリュゼリアが、小さく咳をした。「っ、ごほ……」 短い咳だったが、彼女はすぐに胸の前へ手を当てる。アイダが茶を差し出し、リュゼリアはそれを一口含んで息を整えた。「……今日は、もう」 彼女が低く言う。「ここまでにしてもよろしいかしら」 ヴィルレオは頷くしかなかった。「長くなった」「ええ」 彼女はカップを持ったまま、少しだけ目を閉じる。「少し、疲れたわ」「悪い」 反射のようにそう言うと、またリュゼリアが薄く笑った。「ほらね」 その笑みは、責めるものではない。けれど、もう届かない場所から見ているような笑みだった。 ヴィルレオは立ち上がる。椅子が床をほんの少しだけ擦った。アイダがすぐに近づくが、彼は首を振る。「……休め」 結局、最後に口をついて出たのはそれだった。 もっと違う言葉が必要な気がした。もっと、彼女が失った時間に少しでも触れられるような、真っ直ぐな何かが。けれど最後まで見つからなかった。 リュゼリアは静かに頷く。「ええ。旦那様も」 その答えの穏やかさが、また胸へ痛かった。 扉のところで一度だけ振り返る。リュゼリアは窓辺の椅子に座ったまま、カップを両手で包んでいた。暖炉の光が頬へ落ち、薄青い瞳の中に小さな火が揺れている。距離は近い。声も聞こえる。なのに、彼女はやはり遠かった。 謝った。 けれど、それは謝罪にならなかった。 いや、謝罪ではあったのだろう。ただ、彼女の失った時間へは届かなかった。それだけのことだ。 扉を閉め、廊下へ出る。 胸の奥に残っているのは失敗した会話の重さだけではない。た
リュゼリアは続ける。「旦那様が悪いと認めてくださること自体は、きっと、とても大切なことなのだと思う。昔のわたくしなら、それだけで泣いていたかもしれない」 昔のわたくしなら。 その一語一語が、もう戻らない時間を示している。「でも、わたくしが本当に欲しかったのは、その“悪かった”ではなかったの」「……何だ」 喉の奥が乾く。けれど訊かずにはいられなかった。 リュゼリアは彼を見た。穏やかな顔のまま、けれど瞳の底だけが少しだけ濡れたように揺れている。「当時の時間よ」 その言葉に、暖炉の火まで一瞬止まったように感じた。「謝ってほしかったのではないの」 リュゼリアは、ゆっくりと、噛みしめるように言う。「欲しかったのは、あの朝に“おはよう”って言ってくださることだったわ。あの食卓で、今日の紅茶はどうかと訊いてくださること。夜更けに遅くなった日の翌朝に、わたくしの顔色を少しだけ見てくださること」 ヴィルレオは指先に力が入るのを感じた。逃げるな、とまた自分へ言い聞かせる。彼女の言葉はまだ終わっていない。「そういう、何でもない時間だったの」 声は静かだ。責めているわけではない。だから余計に残酷だった。「今さら“悪かった”と言っていただけることは、うれしくないわけではないのよ。……でも、それであの朝は戻らないでしょう?」 そこで彼女は一度だけ目を伏せた。睫毛の影が頬へ落ちる。「わたくしが一人で食卓へ座っていた時間も。扉が閉まる音だけを聞いていた夜も。あなたの機嫌や食欲や頭痛まで気にして、自分の苦しさは後ろへやっていた日々も。全部、もう終わってしまっているの」 ヴィルレオは息を吸った。けれど次の瞬間、その息が喉で止まる。 言い返す言葉などない。 ないことが、痛いほどわかった。「だから」 リュゼリアは顔を上げた。「旦那様の謝罪は、本当でも、わたくしの失った時間には届かないの」 それが、答えだった。 あまりにも正確で、あまりにも静かな答え。 ヴィルレオはしばらく何も言えなかった。火の音も、風の音も、すべてが遠くなる。部屋の中にあるのは、自分の謝罪が届かなかったという事実だけだった。「……そうだな」 ようやくそれだけを絞り出す。 それ以上、何を言えばよかったのだろう。 “これからで埋め合わせる”と言えばいいのか。そんな言葉が、彼女の
「お前がいなくなってから、ようやく、どこを見てもそれがわかる」 ようやく、という語が、自分で言いながら惨めだった。 遅すぎる。 どれほど遅すぎるかは、彼女のほうがずっとよくわかっているだろう。「……そう」 返ってきた声は、やはり穏やかだった。 責めてもくれない。安堵もない。ただ事実を聞いた、という声だった。「お前がいなければ屋敷は回らない、とは言わない」 ヴィルレオは言う。「回るように、皆がどうにかしている。だが」「だが?」「回っているだけだ」 自分でも、よくこんな言い方ができたと思う。けれど、それがいちばん近かった。「息をしていない」 その言葉に、初めてリュゼリアの瞳が少しだけ揺れた。 息。 つい先日、自分がやっと息をしやすいと感じたことを思い出したのかもしれない。あるいは、彼のほうが屋敷に対してそんな言葉を使うとは思わなかったのかもしれない。「……大げさね」 やや遅れて返ってきたそれは、たしなめるというより、どう反応してよいかわからぬ時の曖昧な言葉だった。「そうかもしれない」「屋敷は人が多いもの。わたくし一人いなくても、そのうち慣れるわ」「慣れるだろうな」「ええ」「だが、俺はまだ慣れない」 リュゼリアの目が、今度ははっきりと彼を見た。 薄青い瞳の中に、小さな戸惑いが浮かぶ。そこに熱はない。ないが、完全な無関心でもない。ヴィルレオはそのわずかな揺れを見逃さず、同時に、それが以前の彼女ならもっと強く返ってきただろうことも知ってしまう。「……旦那様」「悪かった」 遮るように、その言葉が落ちた。 リュゼリアが一瞬、まぶたを止める。 暖炉の火が小さく爆ぜた。 ヴィルレオは、今度こそ視線を逸らさなかった。「見ていなかったことも」「……」「気づかなかったことも」「……」「当たり前のように、お前が整えたものの上に座っていたことも」 喉が詰まりそうになる。だが、それでも言葉を止めたくなかった。「全部、悪かった」 謝罪だった。 おそらく彼の人生の中で、こんなにも真正面から誰かへ「悪かった」と言ったことはない。業務上の不手際ならいくらでもある。政治の駆け引きの中で形だけの遺憾を述べたこともある。だが、こうして自分の知らなさと遅さを丸ごと差し出して頭を下げるような言葉は、たぶん初めてだった。 なのに、言
◇ 小さな居間の扉の前で、ヴィルレオは一度だけ足を止めた。 中に灯りがある。扉の下から、あたたかな色が細く漏れていた。控えめにノックをする。少しして、アイダの足音が近づき、扉が開いた。 彼女は一瞬だけ驚いた顔をし、それからすぐに礼を取る。「旦那様」「起きているか」「はい。ですが、長くは」「少しだけだ」 アイダはためらった。彼女の躊躇いは当然だろう。南へ来てから、リュゼリアの呼吸や疲労の具合をもっとも近くで見ているのは彼女だ。この時間、客室へいるべき男が現れて「少しだけ」と言ったところで、それが本当に少しで済む保証などどこにもない。 けれど結局、彼女は脇へ身を引いた。「どうぞ」 居間は寝室より少し広く、だが王都の客間とは比べものにならぬほど小さかった。暖炉の前に長椅子と低い卓があり、窓辺には小さな読書用の椅子が置かれている。壁際の棚には本が数冊と、薬瓶、花瓶、細い蝋燭立て。どれも必要なものしかないのに、不思議と寒々しくはなかった。 リュゼリアは窓辺の椅子に座っていた。 薄い灰色の室内着に、肩へ白いショールを掛けている。髪は夜の支度のためか半分ほど解かれていて、背へ柔らかく落ちていた。机の上には開いた本と、飲みかけの茶。こちらを見る目は穏やかだったが、昼間の庭で見た時より少しだけ疲れが滲んでいる。「まだお休みになっていなかったのね」 そう言う声は柔らかい。 だが、その柔らかさもまた、以前とは少し違う。王都での彼女の優しさは、常にどこか相手を傷つけぬように整えられていた。いま目の前にいる彼女は、整えてはいるが、以前ほど自分を削ってはいないように見える。だからこそ、やさしいのに遠い。「ああ」 ヴィルレオは短く答えた。「少し、話がしたい」 その一言に、リュゼリアは本を閉じるでもなく、指をその間へそっと挟んで顔を上げた。「長くは無理よ」「わかっている」「旦那様は、そう仰って長くなる方だから、あまり信用はしていないのだけれど」 ごくかすかに冗談めかした声だった。王都ではなかなか聞けなかった調子だ。だがそれに救われるべきか、逆にその冗談が成立するほど他人行儀になったことを痛むべきか、ヴィルレオにはわからない。 アイダが気を利かせて暖炉のそばにもう一つ椅子を置いた。ヴィルレオはそこへ座る。長椅子を挟まぬ分、距離は近い。近い
夜の夜の別邸は、王都の屋敷よりずっと早く静まる。 大公爵家の本邸であれば、夕食のあともどこかしらで人が動いていた。夜更けの書斎へ茶が運ばれ、夜番の侍女が交代し、遠くの廊下では灯りを落とすための足音が続き、厩舎でもまだ遅い世話が残っている。屋敷は眠らぬまま朝へ向かう巨大な生き物で、たとえ主が眠ろうとしていても、その呼吸はいつまでも止まらない。 だが、南の別邸は違った。 夕食が終わり、暖炉へ薪が一本足され、館の端から端まで灯りが確かめられる頃には、もう空気そのものが夜へ沈み始める。足音は少なく、扉の開け閉めも一段と控えめになる。湖からの風が窓の外を撫で、時折水鳥の声が遠く響く。その音さえ、王都の夜のように耳を刺激せず、ただ闇の一部としてそこにある。 ヴィルレオは東側の客室へ通されていた。 館の中ではもっとも日当たりがよく、冬の名残が強い時季でも冷えにくい部屋だと、リュゼリアは言っていた。再会した直後だというのに、その言い方はよそよそしくもなく、けれど親密でもなく、まるで気心の知れた客へ部屋を勧める館の主のようだった。その距離感が妙に胸へ残り、ヴィルレオは部屋へ入ってからも、外套を脱ぐ気になれずにいた。 寝台は整えられている。 暖炉の火も十分だ。 机には水差しと薄い琥珀色の茶が用意され、窓際の椅子には膝掛けまで畳まれている。これ以上ないほど行き届いた客室だ。何一つ不備はない。けれど、その丁寧さの中にあるのは、やはり“客人としての自分”だった。 ここは、自分の部屋ではない。 そしてこの館の主は、いまやリュゼリアなのだと、改めて思い知る。 彼女はまだ病んでいる。咳もするし、長く立ってもいられない。熱も上がる。余命半年という言葉も消えていない。なのに、この館にいる彼女のほうが、王都の屋敷にいた自分よりもずっと地に足がついて見えた。 ヴィルレオは窓辺まで歩き、カーテンを少しだけ開けた。 夜の庭は暗い。だが、南側の花壇のあたりだけは、月と館の灯りを受けてぼんやり輪郭が見える。白と青の小さな苗。リュゼリアが植えた花。あの細い指が土に触れたのだと思うと、胸の奥でまた何かが軋んだ。 会いに来た...。 南へ向かう理由など、道中いくら考えても一つに定まらなかった。愛か、責任か、執着か、後悔か。どれもある。どれもあるのに、どれか一つを「答え」と呼ぶには、感情
ミナが「冷えますので」と声をかけるころには、日がかなり落ちていた。 リュゼリアも素直に頷き、アイダに手を借りて立ち上がる。ヴィルレオも反射的に手を伸ばしかけたが、彼女の身体はすでにアイダの支えの中で静かに均衡を取り戻していた。指先ひとつぶんの差で、また彼の手は空を切る。「今日は、ここまでにしましょう」 リュゼリアが言う。「……ああ」「お部屋は整えさせます。旦那様がお休みになるなら、東側の客室がいちばん暖かいわ」 その言い方は、客を迎える館の女主人そのものだった。穏やかで、過不足なく、遠い。 かつてなら、彼が別邸へ来れば夫婦の寝室をどうするのか、彼女はもっと意識したのかもしれない。自分の寝室からどれほど離れた部屋を用意するか。夫として扱うべきか、病人の療養を優先すべきか。ほんの短い指示の裏へ、いくつもの感情を押し込めていただろう。 だが今の彼女は、ただ来客に最適な部屋を選んでいる。 東側の客室。 朝の陽が入り、夜も暖かい。 その判断に間違いはない。 だからこそ、自分が完全に「訪れた客」として扱われている現実だけが際立った。「リュゼリア」 思わず名を呼ぶ。 彼女は足を止め、肩越しに振り返る。「何でしょう」 その問いの声音に、もう期待がないことをヴィルレオは知った。 何かを言えば、彼女は聞くだろう。 公爵夫人としてではなく、一人の人間として、最後まで礼を失わずに聞く。だが、そこから何かを受け取ろうとはしないかもしれない。 以前の彼女なら、短い言葉の中からさえ、愛情の欠片を探した。 いまは違う。 言われた言葉を、その言葉以上のものにはしない。 そうしなければ、自分を守れないところまで来てしまったのだろう。 ヴィルレオの胸の内には、道中で何度も考えた言葉があった。 会いたかった。 お前のいない屋敷は、どこを見ても違っていた。 お前がどれほど自分を支えていたか、ようやく知った。 愛している。 戻ってきてほしい。 どれも本当だった。 だが、そのすべてを今ここで口にすれば、彼女がようやく見つけた静けさの中へ、自分の後悔と焦りを一度に投げ込むことになる。 彼女へ届かせたいのか。 それとも、自分が楽になりたいだけなのか。 その区別が、まだつかなかった。 だからこそ、口から出たのはまたしても本質から少し外れた言葉だ